フジコ・へミングの時間
フジコ・へミングの時間
08-09-18
開演:10:00
評価:すごくヨカッタ
カメラワーク:
ヨカッタリ、悪かったり、全体的にはプロ仕事。前回シネマクレールで観た<港町>がひどく、僕も薫も船酔い
日本に戻る前、我が家族はシアトルで三度のピアノコンサートの公演に行った。辻井伸行君の公演に二日続けの二回。そしてフジコ・へミングの公演。ところが、フジコさん公演の印象は希薄になっている。日本と違ってアメリカは文化に高額支払わなくてヨイので助かる。
この11月には彼女は広島の三原で公演する予定になっているので行ってみたいと話ている。不謹慎な言い方だが、超高齢から晩年は椅子に座しての演奏となったBBキングの公演には毎年のように行っていた我輩の心中には、これがBBの最後かもしれない!という思いがあった。フジコさんの場合にも似た感情がある。
60になってから花咲いたフジコさんの最初のCDアルバムを僕は薫からプレゼントされている。 因みに、予告編<ブエナビスタ・ソシアルクラブ続編>の中で、人は誰でも、何時かは花開くもんだ!という語りがあった。60になってから脚光を浴びるようになったフジコさんは、さしずめ遅咲きか?
映画の中のフジコさんは、ゴテゴテ重ね着のモンスターばあちゃん。ムサッ苦しいことこの上ない! その上でタバコぷかぷか! 多くのピアニストに通じる繊細なイメージとはホド遠い! しかし、それは僕独特の表現であって、酷評しているわけではない。 そのムサッ苦しいおばあちゃんの口から出るピアノ、想い出、残りの人生などに関する彼女の語りはすごくよかった。映画を観終わって、彼女があのままブルーズプレイヤーだったらどうだろう?と思わせるようなソウルフルな生臭い面が伝わってきた。 一人の女性のフッテージを描いたドキュメンタリーとしては上手に纏め上げられている。
映画館の観客数は20人ほどのオバちゃん達だけ。そこで一句
トーちゃんが 暑い暑いと ヘタル日に 涼しく映画の 真夏のカーちゃん
フジコ・へミングさんについて
http://profyuki.cocolog-nifty.com/blog/2013/05/2013-dab7.html (インターネットで見つけた記事)
5歳の時に日本に移住するも、軍事色が強まる日本に父ヨスタは家族3人を残し、一人スウェーデンに帰国。東京芸大を卒業後、ピアノ留学をしようとするが無国籍が発覚。駐日ドイツ大使の助力により、赤十字難民としてベルリン芸術大学へ留学を果たしました。現在はスウェーデン国籍。
ベルリン芸術大学を卒業後、ヨーロッパに残って各地で音楽活動を行うが、経済的には大変貧しく苦しい状況が長らく続きました。作曲家・指揮者のブルーノ・マデルナに才能を認められ、彼のソリストとして契約しました。しかしリサイタル直前に風邪をこじらせ(貧しさで、真冬に暖房もできなかったため)、聴力を失うというアクシデントに見舞われました。16歳の頃右耳の聴力を失っていましたが、この時に左耳の聴力も失ってしまい、フジコは演奏家としてのキャリアを一時中断しなければならなくなりました。
失意の中フジコはストックホルムに移住し、耳の治療の傍ら、音楽学校の教師の資格を得て、以後はピアノ教師をしながら欧州各地でコンサート活動を続けていました。母の死後、1995年に日本へ帰国し、母校東京芸大の旧奏楽堂などでコンサート活動を行いました。
1999年2月11日にNHKのドキュメント番組『ETV特集』「フジコ〜あるピアニストの軌跡〜」が放映されて大きな反響を呼び、フジコブームが起こりました。その後本格的な音楽活動を再開し、国内外で活躍することとなります。2001年6月7日にはカーネギーホールでのリサイタルを披露するなど、現在ではソロ活動に加え、海外の有名オーケストラ、室内楽奏者との共演と活躍は続いています。現在では左耳の聴力は40%回復しています。
曲の終りに大きな歓声?が上がり驚いて振り返ると、大月ウルフさんでした、でも心なしか、ヘミングはどこか嫌そうな顔つきでウルフを見ていたように感じました。その後も毎回彼のブラボーを聞きましたが、最後には舞台に上がり“皆も感動は表現するものだぞ”と叱られてしまいました。盛大な拍手があったのですが、もっともっと日本人離れした?感動的な反応を期待していたのでしょうか。
様々な苦労・災難を受けてきた彼女は、「この地球上に私の居場所はどこにもない...天国に行けば私の居場所はきっとある。」と自身に言い聞かせていたと話しています。そんな彼女らしく、彼女の描く絵にも「人生の艱難辛苦から逃れる道は2つある、音楽と猫だという」シュバイツァーの言葉を引用しています。